「教養教育」の意味――3つの視角から

われわれ人間・環境学研究科・総合人間学部の教員は学部・大学院教育に加えて全学共通教育・教養教育を担当しているので、研究者としての自分にとってのそのことの意味、あるいは研究と教養教育の関係といった問題をつねに意識せざるをえない立場にある。
一般的に、大学教員にとっての仕事へのモチベーションの高さは、

研究>専門教育>教養教育>大学運営

という順になっているというイメージがこれまであった。つまり、研究と教養教育とのあいだには(専門教育とのあいだ以上に)大きなモチベーションの落差があり、それゆえに、教養教育はどちらかといえば「やりたくない、いやいやする仕事」になってしまっていた。そしてそれがまた、多くの学生諸君の教養教育に対する「おもしろくない」「よくわからない」という不満の原因にもなり、学生の側のモチベーションも低下するため、教師はますますやる気がなくなる……という悪循環の構図がつづいてきたように思われる。

なんとかこうした「不幸な」構図から脱出し、研究と教養教育とのあいだに、また教員と学生のあいだに、もっと「幸福な」関係を築くことはできないだろうか。この問いをつねに考えざるをえない状況に、私などは置かれてきたわけだ (それを考えること自体が仕事のひとつになってきたともいえる)。

この問題はなかなかに難問で、私自身もまだすっきりした解答を見出してはいないのだが、とりあえず (1) 教養教育と専門教育との差異、(2) 社会学と教養教育との関係、(3) 自分自身の教育実践の経験という3つの視角から、現在考えていることをまとめておきたい。

 

(1) 教養教育と専門教育との差異

まず、人間・環境学研究科の「文系群会」(文系教員のグループ)が2004年にリリースした『教養教育に関する人間・環境学研究科・文系群会の考え』 ( http://www.z.k.kyoto-u.ac.jp/pdf/link/link0185.pdf ) という文書 (起草者は高橋由典教授) を参照したいと思う。以下、少々長くなるが、そこから引用する。

一般に専門教育においては相対的に小さな差異を問題とせざるをえないのに対し、教養教育において問題となるのは、相対的に大きな差異である。
(中略)
聴いているのは、その分野を自らの専門にする可能性のほとんどない学生たちだ。彼らに研究者次元の小さな差異に付き合ってもらうことは難しい。そこで講義の焦点となるのは、研究者次元での差異ではなく、研究者と世の常識との差異ということにならざるをえない。この意味での差異は、研究者次元での差異に比して相対的に大きなものとなるはずだ。……講義を聴く学生たちは、いわば「世の常識」を代表する人物として席についており、教師は研究者である自分と彼らとの大きな落差を意識して議論を展開する。
(中略)
教員は研究者の一人として小さな差異にこだわる日々を送っているはずだが、教員個々人の学問的営為をその基底において支えているのは、まちがいなくここでいう大きな差異の方である。大きな差異に言及することは、教員の研究の根本動機に直接ふれることにほかならない。

つまり、いわば「一般市民」代表としての学生たちに対して、自分自身の学問の根本動機――その学問のどこが「おもしろい」のか、そもそも何の「意味」があるのか――を語る場こそが教養教育であり、その意味で教養教育は研究者である教師にとっての自己反省やアイデンティティの再構築の場ともなるということである。

また学生にとっても、教養教育は専門教育に付随するさまざまな現実的・外在的要因 (自分のキャリアとの関係とか教師との人間関係とか) から相対的に自由になれる場であり、だからこそ、純粋な知的関心のみに基づくコミュニティの構築の土台ともなりうる、ということも重要な点だ。

もちろん上記のような状態は一種の理想形であるが、教養教育が構造的にこのような教師と学生との理想的関係――純粋な知的コミュニティ――を構築しうる可能性を秘めていることはまちがいない。

問題は、その可能性をいかにして現実化していくかということにある。

 

(2) 社会学と教養教育との関係

次に、社会学という学問の特質と教養教育との関係について。

ここで参照したいのは、2006年度の日本社会学会第79回大会でのシンポジウム「岐路に立つ社会学教育」の記録である (執筆は藤村正之氏、『日本社会学会ニュース』No.187, 2007より)。

奥村隆氏からは、社会学が世俗との接続可能性と離脱可能性を併存させる絶妙なポジショニングを取りつつ、ゆえに矛盾に引き裂かれてきた二重性が指摘され、「自明性の構築」認識さえ目新しくない相対化の時代に学生の経験と社会学はどういう関係を取りうるのかと問題提起がなされた。
(中略)
野村一夫氏からは……自明性の懐疑や脱常識など社会学の二次的メタ・パラダイムが成立したものの、やや出口が見えず、むしろ現実重視のもとで脱領域的知性として理念を打ち出す必要性があるのではないか。そのためには、社会学的想像力を超えた、教育ディシプリンとしての理論的体系化、公共社会学としての展開の必要性が指摘された。
(中略)
シンポジウムでは、両義性をかかえてきた社会学の位置がさまざまに確認されたともいえ、 リベラル・アーツとしての革新とパブリック・ソシオロジーとしての充実が重なりうるのかが課題のようにも感じられた。教育と研究とは別物とされる場合もあるが、社会学の意義を社会学研究者内々の話にとどめず、他の研究分野や一般市民に向けた提示が求められつつある昨今、未来の一般市民たる学生たちへのアプローチ模索の意義が低下することはないであろう。社会学教育は、外部に向けて提示すべき社会学の理論的自己反省の一方法になりつつあるとも考えられる。

ここでまず提起されているのは、((1)での表現を繰り返せば)「世の常識」を代表する学生たちに対して、社会学はいかにして「大きな差異」(「目からウロコ」の経験) を提示することができるのか、という問いである。奥村氏や野村氏が指摘しているのは、すでに「世の常識」自体が相対化・多元化の時代を迎えて久しく、これまで社会学がウリにしてきた「自明性の懐疑」や「脱常識」といったメタ・パラダイムは、実はとっくに「世の常識」に追いつかれ・追い越されてしまっているのではないか、という点だろう。

その認識のうえで野村氏は、「現実」から離脱するのではなく、むしろ「現実」の問題にポジティブにアプローチしうるような「公共社会学」の提示こそ、現在の社会学に求められている方向性ではないか、と提案している。それは、従来の価値中立的・価値相対的スタンスそのものを「相対化」したうえでの、価値創造的・価値提示的あるいは政策科学的・社会構想的な方向性を再提示することをも意味するように思う。

このシンポジウムでは、教養教育という側面からのみ社会学教育が議論されているわけではないが、「外部に向けて提示すべき社会学の理論的自己反省」という課題が、専門教育よりもむしろ教養教育と親和性の高いものであることは明らかであろう。とりわけ社会学のように、「世俗」との「接続」と「離脱」という二律背反を抱え、学問のアイデンティティを絶えず問いなおさざるをえない学問にとっては、「未来の一般市民」としての学生たちを相手として学問の根本動機を語る、という教養教育のもつ意味は、今後ますます重要性を増してくるのではないだろうか

 

(3) 自分自身の教育実践での経験

以上のように「教養教育」になんとか積極的意義を見出そうと、あれこれ理論武装を試みてはいるわけだが、それはやはり自分自身の教育実践のなかで、自分自身にとっての実感をともなって具体化されなければ意味がないのもたしかである。

そして、結局つねにそこに立ち戻るのは、自分自身にとって社会学という学問は「どこがおもしろいのか」を問い直す「学問の自己反省」の作業である。ただしそれを限られた時間のなかで遂行し、しかもその結果を毎週の授業のなかに反映させていくというのは、なかなかにしんどい作業であるのも事実だ。

とはいえ、自分自身が「おもしろい」と思っている内容でなければ学生にとっても「おもしろくない」授業になってしまうということは、これまでたびたび痛感させられてきた事実でもある。なんとかそういう、お互いに「おもしろくない」苦行から脱出したいという思いも強くある。

たとえば、教養科目「社会学基礎論」の「家族」の章での試行錯誤を例としてあげよう。 こうした概論的授業での「家族」の扱い方は、一般的には、家族社会学の理論を中心に、近代家族の成立と変容の過程を、日本の家制度との比較とかジェンダーの観点との関係などを交えながら解説する、といった内容がおそらく定番なのだろうし、私も以前はそうした授業をしていた。

しかし、そういう内容が本当に私自身にとって「おもしろい」のかと自問すると、あまり肯定的な答は自分のなかから返ってはこない。標準的な「社会学プロパー」な内容と自分の関心の方向性とにかなりズレがあるということは、院生の頃からうすうす感づいてはいたが、教育実践の中で改めてそのことにはっきり気づかされたというわけである。

それでは、私にとって本当に「おもしろい」問題とはなにか。それはどうやら、――家族社会学が主として対象としてきたような―― 「家族」固有の問題というよりは、よりマクロな時間的・歴史的スパンと空間的布置のなかで、アーレントのいうような意味での 「ビオス」( 生)に配慮する空間と「ゾーエー」(生命)とに配慮する空間とが、どのように展開してきたか、また展開していくかという問いであるらしいということに気づいてきた。

アーレントは人間の生を二つの位相に区別している。「ビオス」(βιοτ)と「ゾーエー」(ζωη)である。「ビオス」 とは、誕生から死に至る個体の生であり、可死性を条件とする一度かぎりのものである。人間の生はこの「ビオス」の位相では、過去・現在・未来のあらゆる生に対して「比類のないもの」であり、この各人の生の比類のなさが公共的空間における複数性を構成する。……他方、「ゾーエー」は「生物学的な生命」を意味する。人びとはこの「ゾーエー」の位相においては「ヒトという一者性」を、すなわち動物種としてのヒトすべてに共通する生命を生きている。「ビオス」の多義性と「ゾーエー」の一義性はこのように截然と区別される。(齋藤純一『公共性』、岩波書店、2000年、57頁)

つけくわえれば、アーレントは「ゾーエー」(生命)への配慮という役割を「経済」の本質とみている。この意味で、アーレントは「近代とは、人間の生命〔への配慮〕が公共的・政治的意義を帯びるに至った時代、政治がアリストテレスのいう『善き生』(eu zen)ではなく生きること(zen)それ自体を主題とするにいたった時代である」とみる (同書 54-5頁、〔 〕内は吉田による補足)。

このような視点からみると、われわれにとって「家族」の基本モデルである近代家族(市民的小家族)の特性は、「生」に配慮する「純粋な愛の共同体」、「生命」に配慮する「人間の再生産(社会化)の場」という二重性をもつ空間としてみえてくる。その歴史的特殊性は、「生命」のみに配慮する空間としての古代ギリシアのオイコスと対比することで浮かび上がってくる。

だとすれば、この二重性をひきはがし、オイコスとは逆に、「生」のみに配慮する空間は存在しうるだろうか

この思考実験をフィクションのかたちで遂行した作品として授業で取り上げたのが、アニメ映画「クレヨンしんちゃん モーレツ! オトナ帝国の逆襲」(2001年、原恵一監督)である。この映画の基本設定は、「生命」に配慮する役割を担ってきた「大人」たちがその役割を放棄し、純粋に「生」のみを享受できる「愛の共同体」に脱出すればどうなるか、というものである。

「大人」たちが純粋に「生」を享受できる愛の共同体を実現したのは、秘密結社「イエスタデイ・ワンスモア」が建設したテーマパーク「20世紀博」である。そこには1970年の大阪万博の会場など、高度成長時代へのノスタルジアをかきたてる風景が巧妙に再現され、しんちゃんの両親を含む日本中の大人たちは、自分たちが子どもだった頃、未来が希望に満ちていた時代を完璧に再現してくれるその世界に魅了されてゆく。かれらはやがて家族を、子どもたちを捨て、「20世紀博」で文字通り「子どもに返って」生きることを選ぶが、しんちゃんら子どもたちは失われた21世紀を取り戻すべく、両親たち・大人たちを迎えにゆく――

この映画は、アニメならではの世界設定による、「生」と「生命」の分裂と再統合という思考実験を通して描かれた、「家族」の解体と再生の物語である。

映画のハイライトをみた学生たちに、どの程度こちらの意図が伝わったかはよくわからない。単にノスタルジックな「家族」賛美の作品ととられた可能性もなきにしもあらずではある。ただ、こうした映像資料・具体例などの選択にあたっても、それがまず自分自身にとって「おもしろい」ものであるかどうかが第一の選択の基準でなければならないという原則の一例として、ここではとりあげたまでである。

おそらく、こうした問い直しと試行錯誤を今後もつづけていくことしか、「教養教育」という仕事を自分にとって真に意味あるものにする方法はなさそうである。